LOGIN事故から五日が経った。 久遠ひかるは、まだ入院している。 命は助かった。 それだけでも奇跡だと医師は言った。 だが、復帰の目処は立っていない。 頭部外傷、全身の強い打撲。 さらに精神的ショックも大きい。 医師は、はっきり告げた。「しばらく仕事は無理でしょう」 その言葉を聞いたとき、優の胸には安堵と痛みが同時に広がった。 生きている。 それだけでいい。 何度そう自分に言い聞かせても、心の奥では別の声がする。 ――もし、あの事故でひかるを失っていたら。 考えたくない。 だが、考えずにはいられなかった。 五年前、一度手放した。 そして今度は、失いかけた。 だからこそ、もう二度と同じことは繰り返したくなかった。 だが、その現実が、容赦なく業界を動かした。 撮影中だった連続ドラマ、『愛していると言わせない』は、まだ第一話の撮影途中だった。 異例の事態に、制作会議は荒れていた。「放送延期は無理です!スポンサーが降ります!」「CGでどうにかならないのか?」「無茶言うな!」 怒号が飛び交う。 誰もが焦っていた。 ひかるがいない。 だが、放送日は待ってくれない。 プロデューサーが重い声で言った。「……代役を立てます」 空気が止まる。 誰もが分かっていた。 久遠ひかるの代わりなど、いない。 それでも番組は止められない。 そして翌朝。 ニュースが解禁された。【速報】人気女優・久遠ひかる、事故によりドラマ降板。代役に雪城沙羅、緊急決定。 その記事を、優は無言で見つめていた。 タブレットを持つ手が、ゆっくりと止まる。 ……早すぎる。 決定までが、異様に早い。 ひかるの容体が分かってから、まだ五日しか経っていない。 それなのに、代役の決定から発表までが、まるで最初から用意されていたかのように進んでいる。 胸の奥に、小さな違和感が生まれた。 だが優は、その違和感だけで誰かを疑うような男ではない。 ――偶然だ。 そう思おうとした。 思わなければならない。 今の自分は、ひかるを守る立場にいる。 感情だけで動けば、判断を誤る。 指先で画面をスクロールする。 すると、すでにネットは燃えていた。【雪城沙羅!?格が違いすぎるだろ】【むしろ豪華になってない?】【久遠ひかる可哀想……】【いや代
朝は来たが、ひかるの中には夜がまだ残っていた。 カーテンの隙間から差し込む光が、やけに白い。 まぶしいはずなのに、温度を感じない。 ひかるはゆっくりと目を開けた。 天井を見つめながら、ここがどこなのか理解するまで、少し時間がかかった。 病院――。 その言葉に辿り着いた瞬間、胸の奥が重くなる。 記憶が途切れ途切れに蘇る。 雨。 ヘッドライト。 迫る白。 叩きつけられたアスファルトの冷たい感覚。 目の前を流れる、自分の血。 そして…… あの女。「あなた、まだ生きてたのね」 胸の奥が強く縮む。 ひかるは息を止めた。 夢ではない。 確かに聞いた。 確かに見た。 あの目。 あの微笑み。 雪城沙羅。 なぜ、ここにいるの――。 考えようとすると、頭の奥が痛む。 それでも、その疑問だけは消えなかった。 ――沙羅は、何をしに来たの? 昨夜の言葉が、何度も蘇る。 まだ何もしない―――。 その言葉の中に含まれていた「まだ」という二文字。 あれは、脅しだった。 ひかるには分かる。 身体は動かない。 立ち上がることもできない。 逃げることもできない。 もし、またあの女が来たら――。 恐怖が遅れて体を支配する。 指先が震えた。 そのとき。 病室の外で足音が止まる。 ひかるの体がびくりと硬直した。 まさか。 また来たの――? 心臓が大きく跳ねる。 扉が開く音。 ひかるは反射的に目を向けた。 そこに立っていたのは。「……ひかる」 低く、震える声。 藤崎優だった。 その瞬間。 張り詰めていた何かが、ふっと緩む。 ――優さん……。 その名前が心の中に浮かんだだけで、胸の奥が熱くなった。 安心した。 それだけではない。 ずっと会いたかった。 でも、会ってしまえば、また何かが変わってしまうと思っていた。 だから五年間、離れていた。 なのに今、自分が一番求めていた人が、目の前にいる。 そのことが、たまらなく嬉しくて。 同時に、涙が溢れた。 優は一歩、踏み出す。 その顔を見た瞬間、胸が締めつけられる。 ひどく疲れていた。 髭も剃らず、ネクタイも緩んでいる。 目の下には、はっきりと疲労の跡が残っていた。 この男がどれだけ眠っていないのか、ひかるには一目で分かった。 ――私
第119話 白い訪問者 深夜の病室は、音がほとんど存在しなかった。 規則的に鳴る心電図の電子音だけが、かろうじて「生」を証明している。 ピッ……ピッ…… その音を聞きながら、久遠ひかるは、まだ眠りの底に沈んでいた。 包帯に覆われた額。 腕につながれた点滴。 人工呼吸器は外れたが、呼吸は浅い。 胸がかすかに上下するたび、細い命がここに残っていることだけが分かる。 いつ意識が戻るか分からない。 医師は、そう言っていた。 そして今夜、優は何度もその言葉を思い返していた。 眠れない。 目を閉じれば、手術室の赤いランプが浮かぶ。 もし、あのままひかるが戻ってこなかったら。 その考えだけは、どうしても最後まで考えることができなかった。 ――生きていてくれ。ただ、それだけだった。 優は疲れて鈍くなった頭を振ると、ガラス越しにひかるに呼びかける。 「ひかる、少し外の空気を吸ってくるよ」 そう言うと、優はひかるの病室の前の廊下から離れた。 その時だった。 廊下の奥から、静かなヒールの音が近づいてくる。 コツ…… コツ…… コツ…… 夜勤の看護師が顔を上げた。 一瞬、誰だろうと思う。 こんな時間に面会者が来ることは珍しい。 だが次の瞬間、理解した。 帽子もサングラスもしていない。 それでも隠しきれない存在感。 雪城沙羅だった。 かつて“氷の女王”と呼ばれた女優。 年齢を重ねてもなお、完成された美貌。 白いコートを脱ぐ所作すら、美しい。 その姿には、病院という場所には似つかわしくないほどの静かな威圧感があった。「面会は……」 看護師が言いかけると、沙羅は穏やかに微笑んだ。「少しだけ。眠っているなら、問題ないでしょう?」 声は柔らかい。 それなのに、拒絶しづらい種類の圧があった。 看護師は思わず頷いてしまう。 沙羅は静かに病室へ入った。 扉が閉まる。 音が消える。 そして、空気が変わった。 沙羅は、ベッドの上のひかるを見つめた。 しばらく動かない。 まるで、目の前にある光景を一つひとつ確かめるように。 包帯。 青白い肌。 細くなった腕。 眠っているひかるの姿は、あまりにも無防備だった。 かつてなら、絶対に見せなかった姿。 誰にも弱さを見せず、何度傷つけられても立ち上がってきた女。
朝の光が、冷たいガラス窓を白く染めていた。 長い夜が終わった。 だが優には、時間が流れた感覚がなかった。 ほとんど眠っていないはずなのに、不思議と頭は冴えている。 張り詰めすぎた神経が、疲労すら遮断していた。 ICUの前に立ち、優はガラス越しにひかるを見る。 眠ったままのひかる。 小さな胸が、規則正しく上下している。 それだけでいい。 生きている。 それ以外は、何も望まない。 何度そう自分に言い聞かせても、胸の奥にある恐怖は消えなかった。 もし、あの呼吸が止まったら。 もし、もう二度とその瞳を見ることができなかったら。 考えただけで、心臓を素手で握り潰されるような痛みが走る。 ――俺は、こんなにもひかるを愛していたのか。 いや。 違う。 今、突然愛したわけではない。 ずっと前からだった。 五年前。 優は、その気持ちを誰にも見せなかった。 沙羅と結婚していた頃でさえ、自分の本当の感情をひた隠しにしてきた。 仕事を優先した。 感情を抑えた。 そして、自分自身にさえ嘘をついた。 沙羅との結婚が終わったときも、「仕方がなかった」と思い込もうとした。 けれど、本当は違った。 優の心の奥には、ずっとひかるがいた。 誰よりも愛していた。 だからこそ、その事実を認めることが怖かった。 認めれば、これまでのすべてが崩れてしまう気がした。 だから隠した。 ひたすら隠し続けた。 それなのに今――。 ひかるを失うかもしれないという現実を前にして、もう何ひとつ隠せなくなっていた。 その瞬間だった。 背後から、柔らかなヒールの音が響く。 規則正しく、迷いがない。 この病院の誰よりも場に馴染まない音。 優は振り返る。 そして、一瞬だけ空気が凍った。「……久しぶりね、優」 女は微笑んでいた。 一分の隙もない装い。 淡いベージュのコート。整えられた髪。完璧なメイク。 まるでこれからパーティーにでも向かうような姿。 病院の廊下には、とても場違いだった。 ここは、生と死の境界に最も近い場所だ。 そして、そこへ現れたのは――。 雪城沙羅。 五年前、優と離婚した女。 互いに仕事を優先し、感情のすれ違いの果てに終わった結婚。 少なくとも、世間はそう思っている。 優は沙羅を見つめた。 胸の奥に、かつ
深夜二時。 中央総合病院は、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。 人の気配はほとんどない。 照明も落とされ、長い廊下はどこまでも白く、どこか現実味が薄い。 足音さえも吸い込まれてしまいそうな静寂の中で、優はまだ帰っていなかった。 社長室から持ち込ませたノートパソコンは開かれたままだ。 画面には重要な資料が表示されている。 会社の決裁事項。 海外案件。 今後のスケジュール。 普段なら一瞬で判断できることばかりだった。 だが今夜だけは、何一つ頭に入ってこない。 何度、画面をスクロールしても、視線は同じ場所に戻ってしまう。 ガラス越しの、久遠ひかる。 それだけだった。 規則正しく鳴るモニター音。 小さく上下する胸。 生きている。 それだけが、今の救いだった。 優は無意識に拳を握った。 生きている。 何度も心の中で繰り返す。 それなのに、胸の奥に張りついた不安は消えなかった。 医師の言葉が蘇る。「今夜が山です」 つまり、いつ容態が急変してもおかしくない。 その言葉を聞いた瞬間から、優の中では時間が止まっていた。 もし、このガラスの向こうから心拍音が消えたら。 もし、二度とその瞳が開かなかったら。 考えるだけで、呼吸が苦しくなる。 ――俺は、また失うのか。 五年前もそうだった。 大切だったものから逃げた。 自分の気持ちを認めることが怖くて、ひかるを傷つけた。 そして五年経った今も、優は彼女への想いを胸の奥に閉じ込めていた。 社長として。 一人の男として。 何もなかったような顔をして。 だが、今になって思う。 そんなふうに自分を偽ってきた意味など、あったのだろうか。 優は腕を組み、壁にもたれたまま微動だにしない。 ただ、ひかるを見つめ続けていた。 そのとき。 微かな音がした。 最初は空耳かと思った。 だがもう一度。 ……動いた? 優は反射的に立ち上がった。 椅子が床を擦る音が、静かな廊下に響く。 ガラスに手をつき、身を乗り出す。 ひかるの唇が、わずかに震えていた。 看護師が気づき、すぐに医師を呼ぶ。 慌ただしく人が集まる中、優だけが時間から取り残されたように動けなかった。 ――ひかる。 声をかけたい。 名前を呼びたい。 けれど、怖かった。 期待して、また絶
どれほど時間が経ったのか、優には分からなかった。 手術室の前。 無機質な長椅子が並ぶ、白く冷たい廊下。 硬すぎる背もたれの椅子に腰を下ろす気にもなれず、優はただ一人、立ち続けていた。 頭上では、赤いランプが無情に灯っている。 まだ終わらない。 まだ、ひかるは生死の境目にいる。 普段なら、どんな状況でも冷静でいられるはずだった。 会社を背負い、数え切れない決断をしてきた。誰かに感情を悟られることもない。苦しいときほど、平然としていることを自分に課してきた。 だが、今だけは違った。(ひかる……) 心の中で、その名前を繰り返す。 五年間。 優は一度も、この想いを口にしなかった。 愛している。 ずっと、愛していた。 五年前に別れてからも、その気持ちは消えなかった。 むしろ、離れたことで、どれほど自分の中でひかるが大きな存在だったのかを思い知らされた。 自分から手を離したひかるには、会わない。 連絡もしない。 遠くから彼女の活躍を知るだけ。 それでいいと思っていた。 いや――そう思い込もうとしていた。 自分には、ひかるを愛する資格などない。 一度、自分の手で彼女を傷つけた。 だから、今さら自分の気持ちを押しつけることなどできない。 ひかるが幸せなら、それでいい。 そう言い聞かせながら生きてきた。 だが。(もし……ここで、ひかるを失ったら?) その考えだけは、どうしても受け入れられなかった。 胸の奥が締めつけられる。(嫌だ……) 初めて、心の中で幼いほど率直な言葉が浮かんだ。(ひかるを失いたくない) そのとき――― 手術室の扉が開いた。 優の心臓が大きく跳ねる。 医師が出てくる。「……先生」 自分の声とは思えないほど、低かった。 医師は一瞬だけ視線を落とし、それから優を見る。「手術は成功しました」 その瞬間。 肺に溜まっていた空気が、一気に抜けた。 助かった。 その言葉だけが、頭の中で何度も反響する。 助かった。 ひかるは、生きている。 だが――。「ただ……」 優の表情が固まる。「手術中、一時的に心停止を起こしました」 世界から音が消えた。「……心停止……?」「すぐに蘇生できましたが、非常に危険な状態でした」 あと少し遅れていたら。 もし蘇生できなかったら。
黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男
次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけた
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直







